第2話 遼天東教育学校・高等部

国立遼天りょうてんひがし教育学校。
広大な敷地面積に幼等部から大学院までを設置したその学校は、全国に4箇所存在する。名称は遼天きたひがし西にしみなみ教育学校。
遼天の下に東西南北が入っているように、東日本と西日本の両集中都市2箇所に建設。
親元を離れた学生一人一人が入居できるマンションを始め、ショッピングモールや公園、カラオケや映画館といった娯楽施設なども点在。幼から初等部の生徒には、希望すれば保護者も入居できるファミリータイプのマンションも併設している。
もはや一つの街と言っても過言ではないそこが、現在国が唯一手掛けている教育機関だ。
敷地の出入りはもちろん自由。外部の人間が入ってくることはできないが、内部の人間は入学時に配られる生徒証明書さえ見せれば問題ない。
120年前に我が国を襲った未曾有の大災害、そして猛威を奮った奇病の行く末がこの教育機関だ。
奇病は今でもこの国に蔓延り続けている。形を変えて、遺伝子から遺伝子へと受け継がれる。
遼天東教育学校。
そこは、今でも奇病を身体に潜ませた子ども達の特別な教育機関であり、家号という力に守られた日本の将来を背負って立つ者たちの伏魔殿である。

「これ……門から学校までどれくらいあるんだろ」

思わず一人で、そう呟いてしまうほどには広い学校――否、街並みが広がっていた。
自分の左側を、黒塗りの高級車が何台も通り過ぎていく。背後にある門は大きく、警備員が三人ほど駐在していた。その内の二人が、忙しなく訪れる車の許可証を順番にチェックしている。
一応、千秋と同じように徒歩で通学している者はいるらしかった。自分が先程やったように、残った警備員に学生証を見せては門を潜らせてもらう。
この学校へ入る門は東西南北に4つだ。恐らくそれぞれで同じ体制が取られているに違いない。
ちなみに千春も遼天東教育学校の生徒だが、彼女は中等部。一緒に家から送迎してもらおうと言われたが、千秋はそれを丁寧に断った。
初めての場所だから自分で見て回りたいのだと言ったものの、本心はただ気まずかった。それだけである。

周囲の人間に倣って、千秋は鞄を背負い直し歩き始めた。
高等部に行く生徒は、制服のネクタイを見れば分かる。ここでは初等部から高等部までが同じ制服を着用し、ネクタイの色によってそれらが分けられていた。ちなみに高等部は赤色である。
女子生徒がスカートであること以外に変化はなく、成長に合わせてサイズこそ変化するだろうが、中々コストパフォーマンスの良い制服設計だった。
大学からは私服が認められるとのことで、徒歩で校舎へ向かう生徒の中には制服を着ていない人もちらほらと見受けられる。
結局歩いて30分ほどだっただろうか。学校の敷地面積でまさか30分も歩くとは思わなかったが、現実千秋の足で高等部の校舎へは30分がかかってしまった。
今は10月。まだまだ暑さを感じる時分だ。じんわりと汗を滲ませながら辿り着いた昇降口で、自分の下駄箱を確かめた後に建物の中へ入った。自分のクラスや事前の説明などは、書面で全て通達されている。
転校初日の今日。1限目の時間帯であるにも関わらず、校舎内には生徒が溢れお喋りに花を咲かせていた。

(授業中……だよね?それとも今日は特別なのかな?)

見渡す限りで、生徒が授業を受けている様子はない。そんな中で職員室を目指していた千秋だが、目的の場所の手前は何やら大きな人だかりになっていた。掲示板を指差しながら、生徒は一様にそこへ食いついている。
足を止めて、千秋も少しだけ見て見ようと背を伸ばす。誰かが「押すなよ!」と声を荒げた。それが自分に向けられたものではないと分かっていたが、思わずびくりとしてしまう。
何とか目視できた先には、真っ白なA1ポスターに学年とクラス、そして該当人物であろう人の名前が書かれていた。その上に、真っ赤な花がぽんっと咲いている。

「生徒会……役員選挙」

それは、生徒会選挙の結果を掲示したものだった。
当然だが知らない名前が並んでいる。次の生徒会長は2年生らしく、その下に副会長、書記、会計と並ぶどこの学校でも有り触れた役職名が続いていた。
中には1年生で当選した人もいるようで、千秋は関係ないながらにも(すごいなぁ)などと思った。
自分には間違いなく無縁の世界だ。人付き合いは得意じゃない。むしろ苦手だと言ってもいい。生まれてこの方友達だってできたことはなく、人を束ねるなんて以ての外で、そう……だからこそ千堂家に引き取られたことを苦痛に感じている。千秋が跡を継いだところで潰すのが関の山だ。何より家の人間は、千春以外好意的じゃない。義母に関しては言わずもがな、父親に至っては呼びつけた癖に何も言ってこず、千秋をこの学校に押し込んだ。
だが、それに流されている自分に一番憤りを感じる。抵抗する術など持たなかった、拒否権などこれっぽっちもなかったけれど、こうして唯々諾々と享受している自分が一番の癌である。
伏せていた視線を上げて、千秋はもう一度眼前の選挙結果を見た。
立候補にしろ推薦にしろ、ここに名前が載っている人物を千秋は羨ましく思い、かつ妬ましく思う。ここに名前が在る人は、自分の意志があるか、もしくはその意志を他人に認められた人達だ。ただ流されているだけの千秋とは違う。恐らく自分は一生こうはなれない。
生まれ持った自分の資質が、嫌でも他人を遠ざけるからだ。

「あーやっぱ会計決まんなかったか。こりゃ再選だな」

ふと真横から聞こえてきた声に、千秋はびくりとする。コレは自分の悪癖だ。人の声に、言葉に、いちいち反応するなと母親に何度も叱られた。
千秋の隣には、明るい髪質の男子学生が立っていた。彼の言葉に、千秋の斜め前にいた別の学生が反応する。

「再選すんの?ここまで来たら会長任命じゃね?」
「まぁその可能性はあるけど……良く思わない奴は出てくるだろ」
「どうだろうなー。ま、選ばれた奴はご愁傷様ってことで」

あははと笑う生徒に、隣の男子学生が肩を竦める。すると彼は、千秋の視線に気付いたらしい。ぱちりと目が合って、千秋も彼を凝視していたことを自覚する。

「あ、すみ――」
「お前はどう思う?会計職……誰か推薦いない?」

咄嗟のことに謝ろうとしたが、それより早く彼は千秋にそう尋ねた。
彼が指差した先には選挙結果のポスターがあり、よく見れば、会計の立候補者欄に花が付いていない。
立候補者自体はいるようだった。3人の名前が並んでいるが、誰も当選しないなんてことがあり得るのだろうか?

「ほんとは2年の先輩で決まってたんだけど、例の事件があったからなー。仕方ねーつったら、仕方ねーというか」

例の事件?
気になりはしたが、今日転校してきたばかりの千秋がそれを知るはずもなく、「えっと……」と言葉を濁すも彼は真っ直ぐとこちらを見つめてきた。
千秋は思わず視線を逸らす。人は苦手だ。会話は当然、コミュニケーション自体をできうる限り避ける傾向にある。
それでも、初対面の人物を振り切って逃げ出す――なんて幼稚な真似はできなかった。
人に真摯に向き合えば、おのずとそれに見合ったものが返ってくる。
そう言った人の言葉を思い出して、何とか向き合ったその男子学生に言葉を紡ぐ。

「すみません……僕、今日転校してきたばかりで」

そこまで言って視線を逸らした。人と話すときは目を見てと教えられたけれど、千秋にはそれができない。人の声も、言葉も、表情もその目も恐ろしく感じる。

「は?転校生?」
「はい……すみません、職員室へ行く途中だったんですけど、人だかりができてたんでつい、」

そこまで言うと、彼は「あー、そういうことね」と呟いた。
そしてそのまま、「じゃあ付いてこいよ」と歩き出す。

「へ?あ、あの!」
「案内してやるから付いてこいって。1年だろ?あ、や、実は2年とか言わないよな?」
「い、1年です」
「俺も1年。職員室には、俺も用事あるからさ。そんな校舎図見ながら歩いてると、人にぶつかるぞ」

今日は役員発表があったから、1限目は全学年自習なんだ。まぁ名ばかりだけど……

歩き出した彼の背中を、千秋は慌てて追い掛ける。
1限目なのにこれほど生徒が廊下に溢れている理由を、意図せず知ることができて納得した。
この学校は千秋にとって未知数だ。国が運営するこの学校は、普通の教育機関とは訳が違う。


「はい、ここな。職員室」
「ありがとうございます」

案内してくれた男子学生が、職員室の扉に手をかける。が、ふと何かを思い出したかのように千秋の方へ振り返った。

「そうだ。お前、名前は?」
「……千堂千秋です」
「ふーん、千堂か。俺、一樹。黒澤くろさわ一樹いつきだ」

そう言うと、一樹はがらりと職員室の扉を開け、失礼しますの挨拶もそこそこに「せんせー」と声を上げた。
中から、「黒澤、ちゃんとしろ」という言葉が聞こえる。

「転校生連れてきた。あとさー、俺の」
「あぁ、千堂千秋くんだったか。黒澤、お前は後だ。こっちが先」
「まじかよ。いやまぁいいけど」

どさりと、一樹は空いていた教員の椅子に座り込む。そのままテーブルにあったボールペンを弄り出した彼に、また教師が咎める声を出した。だがそれを、一樹が意識した様子はない。
その後千秋は、教師に連れられ校長室へと入室を促された。
中には穏やかそうな老婦人が一人。彼女がこの学校の校長だ。

「初めまして。ようこそ、遼天東教育学校高等部へ」

何の変哲も無い校長室。こんなところは、自分が元いた学校と同じだなと思った。
歴代校長の顔写真が入った額縁に、何らかの栄誉を称えられたトロフィー。敷かれた絨毯や中央に置かれたテーブルは高級そうで、その内のソファに着席を促される。

「千堂千秋くん。編入試験は申し分なく、お家からの書面でも十分編入条件は満たしていますね。我が校は、この国に二つしかない特別な教育機関です。そのため、特別な校則も設けています。一応書類にして先日お家に渡しましたが、ご覧になりましたか?」
「はい。大丈夫です」
「妹さんが中等部にいるようですし、今更聞きたいこともないかしらねぇ?」

たおやかにそう問われて、千秋は一瞬考えたのち「はい」と返事をした。
この学校への入学条件は厳しい。本人が受ける試験は言わずもがな、家にもそれ相応の調査が入る。しかしある一定の力を持つ家、もしくは本人の資質によっては国から入学を命じられる場合もある。

「今までいた学校と違って、どうしても生徒同士の揉め事は多いかもしれません。驚かれることも多いでしょうが、何か困ったことがあれば、いつでも教師陣に相談してください」

揉め事。そうはっきり言った校長に、千秋は何とも言えない顔をする。
予想はしていたけれど、やはり多いのかと思った気持ちは否めない。
この国に四つしかない特別な教育機関。一世紀以上過去の災害が生んだ、この国の弊害。
ただ個人の存在を表すだけだった苗字は、いつしか家号という特別な力を持つようになった。
今の日本は、文字通りの弱肉強食と言えるだろう。個人、もしくは家の力がなければ、とてつもなく生きにくい世の中だった。


「1学年は15クラス。本館、1号館、2号館、3号館と棟が並んでて、号数がそのまま学年に当て嵌まる。特別授業でもない限り、それぞれの学年館と本館以外に行くことはないな。まぁその都度、慣れるまでは連れてくよ」
「…………」
「俺らはB組。2限目は適当に校舎回ってていいとさ。3限目にHRが入ってたから、そこで紹介ってとこかな。いい日に転入してきたな~。今日は役員選挙の発表日だったし、文化祭も近いから緩いんだ」

校舎の窓から外を見る。大きなグラウンドがよく見えて、隣にあるのは体育館と、食堂だろうか?テニスコートやプールなども視界の端々に映り、もっと遠くを見れば近場に娯楽施設が見える。
広大な敷地面積を誇る教育施設だが、こうして見れば所狭しと色んな建物が建ち並んでいた。徒歩で来たときは広すぎるのではないかと思ったが、全体を見れば建物という建物を敷き詰めている印象である。

「学校抜け出して飯食いに行く奴もいるよ。特別近いんだよ、高等部」

思わず足を止めて窓の外を眺めていると、それに気付いた一樹が急かすことなく近くによってそう説明してくれる。校長先生との話が終わった後、担任に引き合わされ、ついでと言わんばかりにまだ職員室にいた黒澤一樹に千秋は引き取られた。
担任からの学校内を説明してやってくれという頼みに、一樹は一瞬渋い顔をしたもののこうして律儀に付き合ってくれている。
一樹が指差したのはショッピングモールだ。高等部の目と鼻の先にあるそれは、明らかに建設場所を間違っている。

「抜け出して……怒られないんですか?」
「怒られるよ。だから先生たちも昼休みは門を見張ってたりするし……でも抜け出す奴はやっぱり抜け出す。まぁ、これだけ近くに見えるとなぁ……」

グラウンドを挟んでいるとはいえ、確かに近い。学校というのは退屈な場所だ。そこが魅力的に見えるのは仕方がないし、一樹の言っていることは納得できる。
塀を乗り越えて――なんて事例もありそうだと思った。

「学校内で、何か見たいものある?もしくは聞きたいこととか」

一樹の言葉に、千秋は彼を見て――すぐに視線を伏せて考える。
そう言われると中々思い浮かばないものだ。新しい学校に不安がないわけじゃない。特にここは特別な施設であるし、編入が決まったときは正直嫌だった。
見たいもの……は思い付かない。
だが聞きたいことは一つだけ思い付いた。聞いて良いことかどうかは分からなかったが、こんな学校だ。タブーということはないだろうと、千秋はゆっくり口を開く。

「〝異能持ちフィーラ〟と〝異能無しフィーレス〟にクラス分けとかあるんですか?もしくは目印とか」

ぎゅっと自分の袖を握って、一樹を窺い見る。
「あぁ、」と呟いた彼は、どことなく言いにくそうに言葉を紡いだ。

「クラスは分けられていない。ごちゃ混ぜだ。目印とかもねーな。一応、平等がモットーだし」
「…………」
「2年になったら、成績順でクラスが決まるくらいだ」

そう言う彼はどちらなのだろう。
言いにくそうにしているところを見たら、〝異能持ちフィーラ〟なような気もする。
直接聞いても良いかもしれないと思ったが、千秋はそれ以上尋ねなかった。
「気分を悪くしたらごめんなさい」とだけ頭を下げて、一樹の様子を窺いもせず窓の外へ視線を向ける。

異能持ちフィーラ〟と〝異能無しフィーレス
自分が生まれたとき既に、人間はこの2種類に分けられていた。恐らく三世代ほど前からだろう。日本の歴史を見る限り、120年前に流行った奇病のことを考えれば大体がその辺りからだ。
幼年期では絵本で、小学校からは生活の授業で真っ先に教えられるそれである。
日本に住まう人間は2種類いる。異能を持つ者と持たない者。
異能と言っても魔法のような類じゃない。人によっては超人的なものもあるし、日常生活を送る上で便利なものから不便なものまで様々だ。
現在の日本人は、一定の確率で五感の鋭い者が生まれる。

視覚。聴覚。触覚。味覚。嗅覚。

これらのいずれかが発達して生まれた者を〝異能持ちフィーラ〟と呼び、そうでない者が〝異能無しフィーレス〟だ。
奇病はいつしか遺伝子に馴染み、科学者たちはそれを才能と名付けた。
一定の確率で発症する者がいる以上、いつまでも病魔として扱うわけにはいかなかったのだろう。五感を五色(Five-color)と形容し、感じる者(Feel)と定義した。
公式の場や書類上では『FCF』や『FF』などと表記される。
だが、異能と言っても差し支えのないほどの発達を持つ者がほとんどだ。そしてそれを持たない者との差別化を図るため、こうした呼び名が往来にして使われている。
異能持ちフィーラ〟のほとんどが、この遼天教育学校に入学する。
だが強制ではない。普通学校に〝異能持ちフィーラ〟がいる場合もあれば、この学校にも〝異能無しフィーレス〟は存在する。
この学校への入学資格は異能の有無ではない。あくまで家号の強さと、その影響力で決まる。こうなった背景には長い歴史があり、千秋の持つ千堂の名も、それに縛られた家の一つだ。
千秋が一樹にあんな質問をしたのには訳が在る。
異能持ちフィーラ〟には関わりたくない。その一点だ。
自身の能力を武器にした荒くれ者は一定数存在し、千秋の育った田舎ですら居たくらいなのだ。
寄せ集めているこの学校ではどれほどのものか……想像するだけで恐ろしかった。
今の日本は荒れている。これでも良くなった方だと歴史の授業では学ぶが、それでも諸外国に比べて治安の悪さは折り紙付きだ。昔は治安の良い国だっただなんて、到底信じられもしない。

「ま、思ってるほど悪くないぞ、この学校」
「…………」
「既にヒエラルキーは決まってる。賢く立ち回ってりゃ、普通の学校生活さ」

一樹がそう言うとほぼ同時に、2限目終了を告げるチャイムが鳴った。
教室からわらわらと生徒達が出てくる。自分と一樹の存在に気付いた他生徒が、彼の名前を気安げに呼んだ。
姿を見ただけで声を掛けられるなんて、友達の多い男なのだろう。
「おー」と返事をした彼の横顔に、千秋は言葉を放つ。

「案内、ありがとうございました。不安だったことも聞けて良かったです」

それは本心だった。どんな初日になるかと思ったが、少なくとも滑り出しで悪い結果にはならなかったと思う。
一樹の返事も待たずに、千秋は自分の教室へ向かうべく背を向けた。
失礼で、不躾な奴だと思われただろうか?だがそれでもいい。千秋がやることは、目立たつ、騒がず、静かにここで3年弱を過ごすことだけである。


「なんだあれ?感じ悪いな、噂の転校生?」

猫背の背中を見送りながら、一樹は溜息交じりに頭を掻く。近くに寄ってきた友人が眉を顰めてそう言ったが、一樹本人は全くもって気にしていない。

「学校生活が不安で一杯ですって感じだったな。ま、こんな時期の転校生なんてみんなそんなもんだろ」
「家号持ち?」
「あぁ、『千堂』だとよ。聞いたことねぇけど、でもここに入ってきたって事は何かしら手掛けてるんだろ」
「で、〝異能無しフィーレス〟?それじゃあ不安にもなるか」

家もそこそこ。異能も無し。
この学校で一番肩身が狭いのはそんな奴らだ。一樹はそこのところをよく分かっているし、実際に千秋のような生徒は各クラスに一人や二人存在する。
家がそこそこでも異能があればまだマシだ。もしくは異能がなくても家が立派だと、こっちは更に良い。
この学校のヒエラルキーは家号の強さで決まっている。学校だけじゃない、この国全体が既にそうだ。政府がそれを覆したいと思っているのは知っているし、この学校だってそれを目的としていないわけじゃない。
だが、現実今はここから動かない。少なくとも一樹の代では変わらない。
黒澤の家号を持つ自分だからこそ断言できる。この国と、一度作られてしまった力関係はそう簡単に覆せないのだ。

「つーか、なんでそんな奴の相手を、わかがしてんだよ」
「担任に捕まったんだよ。あとまぁ、見慣れない顔だったし探りも入れとくかなって」
「さすが、黒澤家の若様は違うね。ちゃんと名乗った?向こう、更に萎縮したんじゃない?」

言われて、一樹は(あー、)と心の中で思う。
だが、友人の言葉は杞憂だろう。千堂千秋と名乗ったその男子学生は、一樹が名乗っても顔色一つ変えなかった。

「多分、あいつ俺のこと知らねぇわ」
「は!?黒澤の名前知らないとか、どんだけ田舎から出てきたんだよ……」

それは思った。名乗ったときに何も反応されなかったから、一樹は少しだけ訝しんだのだ。
だがそういうこともあるだろう。そしてそういう存在がいることに、一樹は僅かばかりだが不安感を抱いた。
この学校で黒澤と名乗ればすり寄ってくる奴がほとんどだ。一樹の性格も相まって、ごまをすりたい人間が居ても敵対したい人間はいない。いや、中には能なしの馬鹿もいるが、それはそれだ。
とにかく、ここで黒澤という家号は有名である。それに見向きもしない相手がいるということに、一樹は一抹の危機感を覚えた。

「何考えてるんだよ。お人好しモード?」

黙り込み、千堂千秋が歩いて行った方向を見続ける一樹に友人はそんなことを言った。
彼は一樹の友人でもあるが、黒澤家の傘下に入っている家の子だ。一樹の性格には殊更詳しく、それでいてお目付役でもある。
もっとも、お目付役というほど厳しくもないのだけれど。
だがこんな折に小言をぶつけてくるくらいには、役目を果たしてくれている。

「まぁ、危ないなとは思ってるよ。黒澤に興味がないならいいんだ。だけど、知らないってのは普通に考えてやばいだろ」
「でもそりゃ、一樹が気にしてやることじゃないだろ。家の教育不足だ」
「わぁーってる。分かってるけど、いや俺駄目だわ。あぁいうの放っておけない」
「しっかりしてくれよ。そんな性格じゃ、この先お前……」
「ちょっと助言してやるだけだって。同じクラスだし、これでなんかあったら目覚めが悪ぃ」

甘いことを言っている自覚はあった。友人の目は呆れていて、でもこれは一樹の性分でもある。
そんなこと、一樹自身が何より分かっているのだ。


初日の滑り出しは順調だと言ったが、あれは嘘だ。
教室で、遠巻きに見られながらひそひそと噂されている。
黒澤一樹なる生徒が教えてくれたように、3限目のHRで千秋は自己紹介をした。そこまでは良い。促された席が、その黒澤一樹の後ろだった。それもいい。
だが、今のこの状況は何だろう。

「お前、自分で弁当作んの?すげーな、初めて見たかも」
「……はぁ、あの、前の学校から」
「この学校にいる奴って、基本ボンボンだからさ。作るって言ったら使用人が作るし、もしくは買いに行ったり食いに行ったりするわけ。だから俺は、このいかにもな手作り弁当が珍しい」
「僕は……君の、三重箱の方が、珍しいよ」

自身の机の上には、弁当箱が所狭しと並んでいる。いや、むしろ並べられている。
小さなお弁当箱一つの千秋と違って、色とりどりのおかずが詰められた重箱の中身が何せ三つも並べられているのだ。
通っていた小学校の運動会以来かもしれない。余所の家庭が持ってきていたのを見たことはあるが、それをこんな間近で、しかも今日、見ることになるとは思わなかったと千秋は目を瞬く。
千秋が千堂家から貰っているお金は決して少なくない。だが今までずっとやってきた生活スタイルをわざわざ崩すことはないと、お昼の弁当作りは継続していた。
食材は自分で買ってきて、自分で調理して詰める。母子家庭だった千秋には当然のことで、それは今後も変わらないだろう。
対照的なのは一樹だ。三重箱にきっちり丁寧に詰められた食材たち。高級感漂うそれを、彼は「飽きたんだよなー」と言いながら口に放り込んでいく。
そんな姿を目の前で見ながら、千秋は内心焦っていた。
周囲が千秋をひそひそと見つめている。悪口ではないだろうが、好意的というわけでもない。恐らく黒澤一樹という男が、自分と昼食を食べているという現実が、きっと彼らの中で不思議なことなのだろう。
そしてこういう視線を送られる理由を、千秋はなんとなく察していた。

「あの……」
「うん?」
「黒澤さんは……もしかして立派なお家の方なのではないでしょうか……」
「クラスメイトに対してすげー言葉使いするな。黒澤って家号聞いたことない?立派立派。そこそこな」
「僕の家は……中の下もいいところなのですが……」
「中の下かー。うちは上の上なんだなーこれが」
「――お引き取り、「願うな。そして怯えんな、生まれたての子鹿みたいになってんぞ」……」

いや、見たことないです。生まれたての子鹿……
などと言えるほど千秋の精神は強くなかった。
上の上とはどれほどのお家柄なのだろう。今まで母と二人で平凡に暮らし、その手の指導も教育も受けてこなかった千秋には正直想像も付かなかった。
千秋が知っていることは、恐らくそう多くない。幼小中で学んだ一般向けの歴史や現代社会程度の知識。あとは何か色々兄が教えてくれた気もするが、家号持ちの力関係を始めとした、千堂という家のことだけを覚えている。
家号持ちでこそあるが、祖父の事業が成功したことによる成金の果てであること。
異能を持たぬ家の者であるため、立場も決して強くはないこと。
決して大きな顔ができる家でも家号でもない。おおよそ一般家庭より、顔が利く程度だと千秋は思っているし、兄もそれ以上のことは言わなかった。
だからこその中の下。それより下を家号の持たない者とするなら、むしろ我が家は家号持ちの最下層だろう。

「お前、出身は?」

最早弁当を口に運ぶ気すらしなかった。周りの視線とこそこそ話で気分が悪い。

「西部州の最先端です……本当に、田舎で」
「おお、思ってたより田舎……西から来てんな。なのに東高?西高のが近いだろ」
「実家がこちらにあるんです。家庭の事情で、呼び戻されて……」
「ふーん。じゃあ、この辺の家号とか知らないわけだ」
「全く……つい先週まで一般人側というか……家号なんて西部州の有名どころしか知らないです」

そんな知識しかないからこそ、千秋は小さくなって過ごしたかった。
こんなことになるのなら千春にでも少し聞いておけば良かったと思うし、なんなら少し勉強して編入に備えることもできた。それをしなかったのは千秋の落ち度であり怠慢だ。
こんなところでも己の性格が出る。いやでもだってまさか、初日からこれほど誰かに絡まれるとは思わなかったのだ。それも周囲が注目するほどの相手。
誰だ。このクラスメイトは一体誰なんだ。

「いやー、その知識のなさはいっそやべぇな。どうするんだよ変なのに絡まれたら」
「先生に言います」
「ぐうの音も出ないほど正論だが、まず絡まれない努力をしろ?」

千秋を見る一樹の目は呆れている。
怖い。そんな目で見ないで欲しい。そして放って置いて欲しい。
人と話すのは好きじゃないのだ。苦手――いや、嫌いだ。
千秋は人の織りなす言葉が嫌いだ。安心して言葉を、声を聞けるのは母と兄くらいで、それは十六年生きてきて終ぞ変わらなかった。

「この学校の半分は家号持ちだ。ピンからキリまで、安全な家から危ない家まで、七家姓ななかせいって分かるか?さすがに分かるよな?」
「存在は……でも家号までは知りません」

七家姓。今の実質的な日本の権力者。七つの家に与えられた俗称だ。
未曾有の大災害。猛威を奮った奇病。そうして荒れた日本を建て直したのが七つの組織であったことから、今でもこの国は七つの組織――家によって動かされている。
全ての家号の頂点に君臨している七つの家は、互いに不可侵の条約を結んでいる。20年ほど前までは、この七つの席を奪い合ってかなりの争いがあったらしい。
不可侵はあくまで七家同士のこと。その席を奪おうと他から攻められることは止められず、また、そんな輩がいるくらいにはこの国は荒れていた。
現代版戦国時代だよなと、社会科の教師は笑っていた。実際に、内五つの家は没落した上で成り代わられていると聞く。
自分が生まれる前のことなのでよく知らないが、少なくとも今は七家揃っているし、彼らの尽力あってこそ今の日本があるのだろう。

「この学校には、七家姓の子どもたちもいる。まぁ派手な家号を背負ってるくらいだから、敵に回さなければ危ない人間じゃないのは確かだ。むしろ、そこそこな家柄の奴が危なかったりするんだよ。あちこちの地域から集まってる分、地元で大きな顔をしていてプライドが高い奴もいるし、野心を持って来てる奴もいる。親の権力を笠に着て、好き放題してる奴もいないわけじゃない。一応、学校もそれなりに取り締まってるけどな」
「…………」

話を聞いているだけで帰りたくなってくる。
本当にこんな場所に3年間も居られるのだろうかと思って、心底自分の身の上が嫌になった。
半分ほど食べた弁当を片付けようとする。しかしそれをみていた一樹が、「まぁ食え」と無理矢理蓋を奪っていった。

「予想以上に危ないわお前。人の家庭に首突っ込みたくないけど、お前の家はそんなことも教えてくれなかったのか?」

一樹の言葉に、千秋は無表情で俯く。
教えてくれるわけがない。教わっていたのであろう兄はいない。
千春は、と思ったけれど、聞かなかったのは千秋だ。千春だって、千秋がここまで無知だとは知らなかっただろう。何せ千秋本人が、何を知らないのか分からない状態なのだ。
自分で作った弁当を眺めながら、自己嫌悪で一杯になる。人と話すことを嫌がってきた弊害がこれならば、それは千秋の自己責任だ。
そうやって鬱々と考え込んでいた千秋を見て、一樹が何とも言えない溜息を吐いた。
そういう溜息を吐く人間を千秋は沢山知っている。呆れ、失望、そんな感情を千秋は何度も受けて来たし、今ここでそれを向けられたことに肩が震える程度には敏感になっていた。

(放って、おいてほしい)

僕が悪かったから。ちゃんと、勉強しておくから。
どうか放って置いてくれという気持ちが、胸の内を渦巻いていた。
弁当にこれ以上箸を付ける気にもならない。だからと言って、一樹を直視できる余裕もない。伏し目がちに、怯えて、何もできず、ただ時間が過ぎるのを待つ。
これが今までやってきた千秋の生き方だ。千秋は、兄のようには生きられない。

「……ったく、おい、顔上げろ」

頭上から声が降りかかる。言葉遣いの割には険のない声で、ゆっくりと面を上げた先には、文句を言いながらも弁当を平らげ、行儀悪く指に付いた何かを舐め取っている一樹が立っていた。
彼の瞳が真っ直ぐと千秋を見ている。男にしては綺麗な顔立ち。髪の色から少々日本人離れしていて、よく見れば、瞳は僅かに緑がかっている。

「しばらく面倒見てやるって言ってやるほど、俺はお人好しじゃないし暇でもない。お前を守るべきは家だし、それを敢えてしていない事情に首を突っ込むのも筋違いだ。それに、もしかしたら何も起こらず、何にも巻き込まれずお前は学校生活を過ごせるのかもしれない」

彼の言葉は真摯だった。実直過ぎると言ってもいい言葉に、思わずたじろいでしまう。
着席したまま、身体が後退した。だが一樹はそんな千秋の心情を知ってか知らずか、ぐっと顔を近づけて念を押すようにこう言った。

「だけれど、もし何か起こったとき……巻き込まれたときは俺を呼べ。真っ先に。何も考えず。俺の名前を口にしろ」
「あ、の――」
「助けてやるって言ってるんだ。信じろよ」

ぽんっと頭の上に手が置かれる。
まるで幼子を相手にするかのようなそれに、千秋は彼が本当に同級生なのか疑った。
はっと見開いた視線の先に、一樹の顔があってそれが兄に被る。兄は千秋をよくそうして撫でた。三つ下の弟を、いくつになっても子ども扱いして、誰にも心を開けない千秋を慰めてくれた。

「飯は食っとけよ。次、体育だから」

一樹はそう言って千秋の席から離れていった。重箱を適当に自分の席に置いたまま、教室から出て行く。
千秋はそんな彼を、どこか唖然とした気持ちで見つめていた。
彼は本当に、一体なんなのだろう。
転校初日から、こんな訳の分からない自分に……
親切な人だと思った。そこで反感も気味悪さも抱かなかったのは、千秋が彼の言葉を信じたからである。

「あんなの、全校生徒に言っていたらキリがないと思うけれど」

元は艶やかな黒髪だった。しかし全体に赤いメッシュを入れた彼女の頭髪はこの学校でとても目立ち、かつ顔立ちも相まって一種の有名人にすらなっている。
廊下を行き交う生徒たちがちらちらと女を見ていた。2学年である彼女が1号館にいるのが珍しいのだろう。一樹は女を前にして、本日何度目かの溜息を吐く。

「……分かってるよ」
「分かっていないわ。お前の欠点ともいえるそのお人好しは、一体いつになれば改善するのかしら」

一樹はこの女が苦手だった。一樹の痛いところを容赦なく突いて、かつ抉るように言葉を紡ぐ。
自分を真っ直ぐと見据えるその眼光も、逃げ道を塞がれているようで益々居心地が悪い。

「俺の性格は、あぁいうのを放っておけるほど出来てないんだよ。危ないと分かっているものを、危ないままにしておくのは目覚めが悪い」
「お前のせいではないのに?」
「名前を聞いて、言葉を交わして飯まで一緒に食ったら、もう他人じゃないだろ」

女の表情が、理解できないと言っていた。
理解してもらう必要は無い。一樹には、目の前の彼女のようにその容姿と在り方だけで人を惹き付ける才能は持っていない。嫌でも人を呼び込んでしまう彼女とは違うのだ。そしてその誰もを信用していない――そんな生き方は一樹にはできない。
一樹は一樹の行動理念に基づいて生きている。誰かが困っていたら手を差し伸べてやりたいし、助けを求めていたら駆けつけてやる程度には〝人間〟に好意的だ。
一樹は多分、誰よりも〝人間〟が好きなのだ。それが欠点だということは自覚している。
少なくとも、黒澤家の跡取りとしては相応しくない。

「……まぁいいわ。今に始まったことではないし、そのせいかお前の周りには人が多い。中には役立つ縁もあるんでしょう」
「別に利益を求めてるわけじゃ、」
「求めていることにしておきなさい。建前は大事よ。お前は黒澤なのだから」
「…………」
「今日の放課後、生徒会室へ」

伝えたわよ、と踵を返した女の背中に、「は?それだけ?」と声を掛けた。だが彼女は振り返らず、赤い髪を揺らして自分の学年館へ帰っていく。

(んな伝言……メッセージ一つで十分だろうが)

ポケットを探って、端末を取り出そうとする。しかし一樹が思った場所にそれはなく、あれ?と制服の内ポケットも探る。
自身の身体を手当たり次第に触れること数十秒――

「……家に忘れたわ」

最後に見たのは朝食の時。テーブルに置いて、今日のニュースと天気予報をチェックして……ゆっくりしていた中で妹に急かされて、そのまま――
思い出して、頭を掻く。赤髪の女はもう見えない。

「お優しいこって」

呟いた言葉は誰の耳にも届かなかった。

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