プロローグ

わたしの人生は生まれたときから決まっていた。

フケとケジラミに塗れた頭。一度も整えられたことのない頭髪がどこまで伸びているのかなんて気にしたこともなく、またどんな状態であったかなんて今でも覚えていない。
痩せこけた身体からは酷い腐敗臭がしていた。いつから着ているのかも分からない衣服。顔から足の先まで泥と土に汚れ、垢塗れだった身体は常に痒かった。掻き毟った腕には血が滲み、常に膿んでいる。
身体のあちこちがそんな状態だった。
自身の記憶がある時点で、そんな状態だった。
口にするのは公園の水と、ゴミ箱の中にあった何か、草、虫。ご馳走はリョウシンが食べて、いらないと捨てられていたもの。
『食べる』という行為だけは知っていた。
それができないのは苦しいことだと知っていた。
まるで身体が、焼けて溶けていくような感覚よりも、刺されるような痛みで固まっていくような感覚よりも、時間が経てば収まるそれとは違って、『食べない』ことはずっと苦しかったと記憶している。
逆にそれ以外は知らなかった。
わたしの世界は、わたしと、リョウシンと、あぁ――それ以外に何かあっただろうか。
分からない。思い出せない。覚えていない。
そしてきっと、覚えていないことは幸福なことなのだ。
そんな場所に生まれたからこそ、わたしの人生はこうなることが決まっていた。

「臭っ!っつーかきったね!うわお前ちょっとどっか行け」

ドンッという衝撃音に振り向けば、連れて歩いているわけじゃない――だがいつも自分の後ろをついて回る少年が、痩せこけた子どもを足蹴にしていた。
壁に打ち付けられたらしいその子どもは、何も言わずその場に倒れる。ごろんと転がった首がこちらに向き、まるで人形のように開ききっていた瞳はこちらを見ていた。
何をされたのか分からない――そんな表情でいる子どもだったが、恐らく痛みはあったのだろう。きょろきょろと瞳を動かしたのち、骨と皮だけと言っても過言ではないような指で肩口に触れる。
近くにいた部下が、無言で少年――翔平の腕を引いた。
その際に何か言ったようだったが、「だってまじ臭かったんだって!」と声を荒げている様子を見ると、意図してというよりは思わず足が出た、そんな状態が窺える。

「……まさか、子どもを生み育てる余裕があったとはな」

自身の呟きは、正確に目的の人物へと伝わったらしい。
「ち、違うんです!」と叫んだのは、怯えからか顔を青くし、口端に血を滲ませた男だった。

「き、気が付いたら堕胎の週数を超えていて……死産を、狙ったのですが、出先でこいつが腹痛で動けなくなり、誰かが勝手に救急車を呼んで、それで、」
「…………」
「未熟児として生まれたせいで病院が手放してくれなかったんです!勝手に、そのせいで俺たちも身動きが取れなくて、押し付けられて退院して、の、のたれ死ぬと思ったのにしぶとくて……っ」

ガタガタと震えながらそういう男は、本気でそう思っているらしかった。男の背後に隠れる妻も、涙を流しながら強く頷いている。
つまり不可抗力だと言いたいのだ。
膨れ上がった借金も返さず、逃げて子どもを作り、家庭を築いていたわけじゃないと。
もっとも、自分にとっては逃げ隠れていた時点で粛正の対象だ。別に生まれた子どもをどう扱っていようが関係なく、ただ一感想として思わず呟いてしまっただけのこと。
未だ転がったままの子どもは、栄養失調が行き過ぎているせいか正確な年齢の判別が難しい。体型だけで見れば三歳前後といったところか。
姿形や呻きも泣きもしない様子を見ると、〝育てていない〟という発言はあながち嘘ではないらしい。

「母乳を上げないと泣いてうるさいから、近所の人に通報されたりして、で、でもこの数年は本当に何も、きゃあ!」

男女の発言が聞くに堪えなかったのか、部下の一人が女の髪を掴んで床へ転がす。さっと身を捩って女を避けた男には、鳩尾に蹴りを食らわす始末だ。

「言い訳してんじゃねェ!てめぇら、きっちり落とし前付けさせてもらうからな」
「ヒィ……っすみません、すみません!払います!お金は全部払いますから、すみません!」

半泣きで部下に請う男を見て、いつの間にか隣に立っていた翔平が「払える額なわけ?」と問うてくる。
自分を見上げてくる彼の目は無邪気なものだ。
無邪気がこの世界では一番質が悪いと知っているのだが、それを敢えて咎めることはしない。
何故ならこの状況を作ったのは自分であり、計画し意図してこうなった現状を一番楽しんでいるのも己であるという自覚があった。

「払えるとも。身体のパーツを丁寧にバラして、売れば利子分まできっちりな」

ニッと上がった口角に、男が心底絶望した顔をする。女は声も出ないようで、だらんと下がった腕だけが震えていた。

「二人分で丁度の金額になる。あぁ、子どもも加えればおつりが来るな。この分は迷惑料として貰っておこう」
「、――た、たすけ」

こ、子どもは差し上げます!それで、それで一先ずどうか!!

叫ぶ二人を無視して、連れて行くよう部下に命じる。
子ども一人分で賄える金額ではないし、一瞥をくれてやった子どもの状態を見る限り、バラしたところで二束三文といったとこか。
だったらその手の愛好家に売りつけた方が高くつく。
男児か女児かでも変わってくるが、そもそも死にかけのような子どもである。売り物にするまでが面倒で、重藏は溜息を吐いた。

「おい、歩け」

子どもの腕を掴み、立ち上がらせようとした部下が一瞬であるが顔を顰めた。
「な!?臭いだろ?汚ぇだろ!?」と声を張り上げ、自分自身の両腕を擦る真似をしたのは翔平である。
子どもからぱっと手を離した部下が腕を振った。どうやら手の平に何かしらの液が付いたらしい。見る限り古いものから新しいものまで、様々な傷がある。真新しそうなそれからは、黄色い液が潰れた皮膚から滴り落ちていた。
その場にへたり込んだ子どもが、のろのろとした動作で部下を見上げる。
痩けた頬。瞼周辺も肉がないせいか凹んでおり、ぎょろぎょろと動く眼球は薄汚い化け物の類にさえ見えた。

「っ……旦那様、こいつ恐らく言葉も分かっていませんよ」
「だろうな。逆にこの住宅街で、よくこんな風になるまで生きていたものだ」
「通報は何件かあったと調べにありましたが、まぁこの辺はまだ行政基盤が緩いですからね。そこを狙って、あの二人もここにいたんでしょう」
「このご時世、こんな子どもは山ほどいるからな。まぁそれにしても酷い方か」
「おえええ……まじ汚ぇ。親父、もう行こうぜ。それこそほっときゃ死ぬだろ」
「お前も三年前はこんなものだっただろう」
「俺はもっとマシだったっつーの!」

心外だと叫ぶ翔平は、三年前に重藏が拾った孤児だった。
今でこそ行政が整いつつあるが、三年前は機能すらしていない地域があり、各所にスラムが点在していた。
翔平はその一角から縁あって保護した子どもであり、今は重藏の駒として働いている。

「旦那様、どうしましょう?」

翔平とじゃれる重藏に、部下は子どもと彼らを見比べながらそう尋ねた。
「そうだなぁ……」と思案したのはちょっとした気まぐれで、それでいて少しの好奇心が入り交じっていたように思う。

「一先ず連れて来い。見せしめに、あの二人の前でそれをバラしてもいい」
「了解しました」

手袋を嵌めた部下が、子どもの腕を掴んで引き摺る。
やはり声一つ上げなかったそれには、恐らく何一つ理解できていなかったのだろう。そんな機能すら、備わっていなかったのだろう。
人間は、生まれと育ちで全てが決まる。
だからその子どもはこの時点で、あらゆることが決まっていたのだ。

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