第1話 兄の死

2168年。東京。
首都であり、東の都と呼ばれたその地は今や見る影もない。
行政は狂い、あちこちにスラムが点在し今ではすっかり無法者が蔓延る地域となっている。
それでも時間を掛けて何とか過去の栄光を取り戻そうとするそこでは、今も復興活動が進められていた。酷く変わった地形を意識しながら、高層ビルが建ち、ショッピングモールができ、巨大な敷地面積を誇る学校が建てられている。
それでも昼夜問わず響くのはサイレンの音。怒号、悲鳴。稀に爆発音。
今より120年前に起きた未曾有の大災害により、この国は未だ混乱を極めていた。

2048年。日本の首都である東京に巨大な隕石が落ちた。
当時、落下予測地点に上がっていた日本は混乱を極め、周辺諸国や同盟国の手助けにより、落下自体を防ぐこととは失敗に終わったものの、人的被害はそう多くなかったと聞いている。
しかし、落下による衝撃波やその影響で起こった津波などにより、東京、神奈川、千葉の被害面積は拡大。
東京都の保有面積3分の1が更地になるなど、政治は当然のように混乱し、難民が増え、仮設住宅を構える地方の負担は凄まじく、それによる国民同士の争いが絶えない自体となった。
だが問題はそれだけではない。日本を襲った一番の脅威は、前代未聞の〝奇病〟である。
それはどんなに高名な学者たちにも解明できない奇病であった。日本全国は当然、近隣諸国にも数例が及んだ、当時は精神疾患として扱われた病である。
致死率82%。発症した者をことごとく葬るその奇病のせいで、日本の人口は半分近くまで衰退。
日本という国は、それを解明するのに五年近い時間を要した。
先進国として栄えていた小さな島国で、内乱が勃発。政府は機能していなかった。機能できなかった。
蔓延った奇病は人を選ばず、どういう感染経路でどう発症するかが突き止められなかったのである。
当時の政府要人は真っ先に病に倒れ、死んだ。残された国民は不安に駆り立てられ、秩序を失い、生き残るのは強者だけという暗黒時代の突入である。
それでも研究は行われた。それだけは止めてならないという、ギリギリの理性が国民の中に残っていたと言ってもいい。一時的に首都を移した、現在の旧京都府にて行われた研究の結果、奇病の原因は東京に落ちた隕石だということが判明した。
宇宙から侵入してきた物質。奇病として恐れられたそれは〝FSD〟と名付けられ、人間の五感に影響を与える全く未知の物質だった。

視覚。聴覚。触覚。味覚。嗅覚。

これらを異常に発達させる物質は、感染した者の精神を狂わせる。
中でも聴覚と嗅覚、視覚に影響を及ぼされた者の自死率は高かった。四六時中身体に入ってくる音、匂い、そして光。気が狂うのに時間はそう要しない。
触覚に影響が及んだ者は、肌への感覚が敏感になる。それも異常に発達するのだから、こちらは即死率が高かった。ショック死である。
死亡率が低かったのは味覚者だが、あくまで数値上である。発症後の彼らがまともな人間生活を送れたかといえば否だ。口からものを摂取できなくなった彼らは点滴で栄養を繋ぐ。襲い来る空腹感は並大抵のものではなかっただろう、思考がはっきりと保たれていた分、一番の地獄だったかもしれない。
この奇病を防ぐ術はどこにもなかった。治療薬も存在せず、遺伝子に直接影響を与えるそれは、発症した時点でどうしようもなかったのである。
それでも、感染率とその発症度合いには地域差があった。
日本だけでなく近隣諸国にも数例を及ばせた未知の物質であるが、一番被害が多かったのは隕石落下地点の周辺である。
つまり、旧東京都を中心として広がったそれは、海を渡るほどの力はなかったということだ。近隣諸国での発症例が数例に及んだのが良い例で、北は北海道、南は沖縄も本土に比べれば被害は少なく、かつ致死率もぐんと下がった。
後の研究で、その物質が人から人へ感染するものではないということも判明した。日本という国をほぼ壊滅に追い込んだそれであるが、120年が経った今では新たに感染者が出ることはない。
隕石はとうに撤去され、今ではまるで何もなかったかのように埋め立てられその上に建物が建っている。
隕石落下から今日に至るまでの120年は過酷だった。なんならその痕跡は今でも残っているし、日本人という人種は隕石落下前から大きく進路を変更している。
政治は確かに復活した。警察も、消防も、病院も、学校も……中央が管理していたものはちゃんと機能しているし、だが、それが昔ほど力を持っているかと言われれば否である。

「こちらが、お部屋になります」

そう言って通された十畳間の和室には何もなかった。
開けられた襖の向こうは無機質で、背にしている庭は荒れている。
千堂せんどう千秋ちあきは、室内をぐるりと見回したのち、唯一持ってきたボストンバッグをそこに置いた。中に入っているのは必要最低限の衣類と、お気に入りの本くらいである。

「必要なものがありましたら、いつでもお申し付け下さい」
「…………」
「来週から通われます学校の、制服や教科書類に関しましてはこちらで手配しております。筆記用具はいかが致しましょう?必要であれば、こちらで手配させていただきます」

そんなことをすらすらと言ってのけるその人は、今日初めて会った人だった。本土の最西端に住んでいた自分を、首都まで連れて来た彼は父親の部下だという。

「お願いします。制服は、今日もらえますか?」
「はい。本日の夕刻から通夜ですので、それまでにお持ちします」

通夜という言葉に、思わず身体がぴくりと震えた。
震えて――唇を噛む。千秋は自分がここに居る理由を痛いほど理解していた。
どうして住み慣れた場所を離れて、涙を流す母親を置いて、連れ去られるようにしてここへ来たのか。その理由を、吐き気がするほど理解している。
「それでは失礼します」そんな言葉を背中で聞きながら、閉められた襖と何もない部屋。
その中央に、千秋は何をするわけでもなく座り込む。
信じたくない現実が目の前に山ほど転がっていて、千秋はその全てに押し潰されてしまいそうだった。

千堂千夏ちなつ。享年19歳。
千堂家の長男であり、かつ跡継ぎだった彼は交通事故で呆気なく逝った。事故を起こしたのは薬物中毒者だが、現在の日本においてそんな人間は山ほどいる。その中でもかなりの末期症状だったと聞いているが、この国の司法がまともに機能してくれるのを願うばかりだ。
兄をひき殺したその男は、そこそこの家柄だと聞いている。今は拘置所にいるようだが、下手をすれば一週間ほどで表に出てくるだろう。今の日本はそういう国で、偉いのは政府やそれに準ずる機関じゃない。
家だ。力のある家。もしくは力ある家に守られている家。
続に言う『家号持ち』である。日本人にはみな姓・苗字と呼ばれるものがあるが、特別な姓、すなわち『家号』を持つ者が一定数存在する。
千堂家は『家号持ち』だが、数多ある家号の中でも弱小だ。それなりに事業を展開し、こんな離れを子どもに持たせるほどには裕福だが、政府機関に圧力を掛けられるほどの力もコネもない。よくて中の下といったところ。
兄はそんな家の長男で跡継ぎだった。有能で、期待も大きかった、千秋の異母兄弟。
兄が本妻の子。そして千秋は愛人の子。千堂家の現当主である父が、気まぐれに手を出した女に生ませた子どもが千秋である。
千秋は日本本土の最西端にある片田舎で育った。旧中国地方・山口県。現在は西部州・山口と名前を変えて、追いやられる形で母とそこに住んでいた。
父親には片手で数えるくらいしか会ったことがない。だが兄とは半年に一回、多ければ二回は会っていた。現代においては古風だが、手紙のやり取りも頻繁だったと思っている。
聡明で優しい兄だった。兄の母は自分を毛嫌いしていたが、何故か彼は最初から友好的で、だから昔は、自分がそんな複雑な家庭だと知らなかった。
千秋はあまり賢くない。自分で言うのもなんだが、のんびりしているというのが正しいだろうか。
この複雑な家族環境を知ったのは随分と後のことで、まぁ知ったからと言って何ができたわけでもないが、でもそうやって会いに来てくれる兄を慕い続ける程度には鈍感だった。
そしてそれほど慕っていた兄が、事故で死んだという。
加えて跡継ぎがいなくなった家を、どうしても存続させたいと呼ばれたのが千秋だ。
そうやって部下に命じ、母親から引き離される形で連れてきた千秋に父親は未だ会いに来ない。本宅から離れたこの一角を、丸ごと部屋として渡されたのは恐らく本妻が嫌がったのだろう。使用人は特に付けるつもりはないらしく、離れの構造や台所の使い方などを一通り説明されたのち、この十畳間に置いて行かれた。
だがその方が気楽だと思っている自分もいる。兄がずっと暮らしていた家。そこに押し込まれるということがどんなものか、千秋は道中ずっと考えていた。

「千秋くん。いる?」

ふと、襖の向こうから声が聞こえた。
振り向くと、そこには女性の影がある。女性というほど成熟したシルエットではないことと、自分を「千秋くん」と呼称したことから、誰であるかは簡単に察しが付いた。
千秋は重たい腰を上げて、「はい、います」と襖を開ける。

「ごめんね、休んでたところに。はいこれ、制服」
「、ありがとうございます。すみません、まさか千春さんが届けてくれるなんて」
「いーのいーの。松繁さんから奪い取ってきちゃったんだー。千秋くんの顔見たくて」

あと、千春さんは止めてよね。

口を尖らせながらそういう彼女に、千秋は苦笑しながら制服を受け取る。
松繁さんとは、恐らく自分をここに連れてきた人のことだろう。名乗られはしなかったが、制服のやり取りを考えるに大体の察しはつく。
千春は千秋の一つ下で、立場上は妹になる。兄ほど会う頻度は多くなかったが、それでも名前で呼び合う程度には交流があった。

「兄さんの顔見た?見てないなら、一度一緒に見に行かない?」
「……それ、僕が行ってもいいんですか?」
「当然よ。兄さんも、千秋くんに会いたいと思う」

千春の誘いに、千秋は一瞬であるが戸惑った。
兄の遺体は通夜の会場である本宅にあると聞いている。連れて来られて早々にこの離れへ押し込まれた自分が、そこに足を踏み入れて良いのか分からなかった。
余計な軋轢を生むのではないかと思っている自分がいる。何故なら自分は、兄の代わりを務めるべくここに呼ばれたのだ。父の傲慢さで、お家存続のためだけに呼ばれた厄介者。それが千秋の立ち位置だ。

「大丈夫よ。変なこと言う奴がいたら、私がとっちめてあげる!」

そう言ってファイティングポーズを取った千春の表情は底抜けに明るい。だが同時に、その目元に赤く擦ったような跡を見つけて何とも言えない気持ちになった。
兄が急死したのは昨日のことだ。恐らく彼女は、全てを感情に任せた後なのだ。

千春に連れられ本宅へと足を踏み入れる。離れと違って随分と複雑に造られた建物にはいくつもの部屋があり、広すぎる廊下を使用人やスーツを着た男達が行き交う。
その誰もが千春と、彼女に連れられた自分を一瞥して何とも言えない顔をした。そこに込められた感情が読み取れるほど、千秋は人間が出来ていない。
それでも自分の前を歩く千春は淡々としていた。彼女にとっては自分の家であるということも大きいのだろう。加えて彼女はこの家の一人娘。使用人の視線に戸惑う方がおかしい。

「ここだよ」

千春が襖を開けた向こう側には、殺風景な光景が広がっていた。
驚くほど何もない部屋だ。もしくは全てを撤去して、兄の遺体だけを寝かせているのかもしれない。
部屋の中央とも言える場所に、それは横たわっていた。
きっちりと肩まで布団を掛けられ、顔は白い布で覆われている。
枕元に置かれた白木の台の上で、ぼんやりと蝋燭が揺れていた。近付けば分かる、うっすらとした香炉と線香の香り。

「兄さん、千秋くんだよ」

遺体の傍に膝をついた千春が、そう言って兄の顔に被せられていた布を取った。
露わになった兄の顔に、千秋は息を呑む。
真っ白で――眠っているように見えるが生気のない顔。実際に死んでいるのだ。それは死んだ人の顔だった。
額や頬に赤黒くなった傷がある。恐らくは事故の際にできたものだろう。
部屋の中で、千春の鼻を啜る音が聞こえた。千秋は自分の顔が歪むのを自覚する。だが涙は出でず、ただこれ以上兄の顔を見ていられなくて膝に置いた自分の手を見つめた。
何か言わなければと思って開いた口。だがそれが言葉になることは当然、音にすらならずただ息を吐く。
泣き出したい。泣くことなど出来ない。大声で、人目も憚らず、この優しかった兄の遺体に縋り付くことができたなら、どれだけ良かっただろう。
だが、できない。してはいけない。千秋はこの家で兄の兄弟ではないのだ。それを誰にも認めてもらえないことくらい、千秋はよく理解していた。


通夜も葬儀も滞りなく終わった。
千秋は呼ばれた立場でありながら親族席に座らせてもらえることはなく、一番後ろの端の席で、兄の遺影を見つめていた。
焼香さえ許されず、ただそこに座っていろと命じられる。当然、出棺時の花入れの儀も認めて貰えそうになかったが、千春が声を荒げて抗議したことにより一花だけ手向けることが許された。
生花で埋め尽くされた兄の顔を、本当はもっとゆっくり見たかった。そうしてもいいのだと千春は言ったけれど、弔問客の気まずそうな顔、そして義母の嫌悪――いや、憎悪すら込められた視線。そういう色々なものに耐えられず、千秋はすぐにその場から身体を引いた。
棺に蓋が為され、釘で打ち付けられていく。義母の泣き声が響いていた。自分の制服の袖を掴んで離さなかった、千春の指が震えている。
父の顔は――よく分からなかった。昔から何を考えているのか分からない表情で、ただ期待をかけていたのであろう兄が運ばれていく様を、ずっと見ていた。

自分はここで、本当に兄の代わりを務めなければならないのだろうか?

受け入れてくれる人などいないこんな場所で、あの聡明な兄の代わりを、この愚鈍な弟が務められると本気で思っているのか。
暗い離れで、千秋は一人そんなことを考える。
考えても仕方のないことだ。どう足掻いても変えられない現実だ。
兄が死んだことも。自分がその身代わりをさせられることになったのも。

(兄さん……)

結局最後まで涙は出なかった。
あんなに好きだったのに。あんなに慕っていたのに。
正直に『兄さん』と呼べるほど家族としての愛情を持っていたのに、泣けないとは思わなかった。
千秋の瞳は乾いている。実感がないのか?遺体まで見て、骨まで拾ったのに。
自分はこんなに薄情な人間だったのだろうかと思ったら、やはり顔が歪む。
だが歪むだけだ。涙は出ない。
泣け、泣けよ――と言い聞かせても、兄のために零れ落ちる物などなにもない。

「はは、」

代わりに出たのは乾いた笑い声だった。泣くことはできないのに、笑えるだなんて。

「僕は、ひどい弟だね」

優しかった兄の、優しい微笑みが瞼の裏に蘇る。

『千秋は、俺の自慢の弟だよ』

本当に、優しい兄だった。
母と同等に思えるほど、大事な大事な家族だった。

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