祖母が死んだ。膵臓がんだった。
無症状のまま進行し、気付いた時点で手遅れだったと聞かされたのは、全てが終わってしまった後である。
黒い服を着た大人たちが、ぞろぞろと家の中へ入ってくる。
祖母が死んだという事実よりも、知らない人たちが沢山いるその空間が怖くて、私は思わず隣にいた兄の服を握った。
そうして見上げた兄の顔も強ばっていて、服を握った手をゆっくりと解かれた後に、ぎゅっと手を握ってくれた。
「さぁ……おばあ様にお別れを言いましょう?」
頭上から降り注いだ柔らかな声。
兄と私を見下ろすように、優しく笑いかけてくれた母の目元は濡れていた。
おばあ様。
美しく、穏やかで、優しかった私たちのおばあ様。
兄と手を繋いだまま、母に連れられ入った部屋は眩しかった。真っ白な照明が目に痛いほど明るくて、お花が一杯の中に溢れる綺麗な場所。
だがその光景に、鼻の奥がツンとしたのは事実だ。
溢れんばかりいる黒い服を着た大人たち。聞こえるのは泣き声や涙声ばかりで、その誰もが沈痛な面持ちで項垂れている。
その中で一際――叫ぶように泣いている人がいた。
祖母が入っているのであろう棺に縋り付き、黒い喪服が汚れるのも気にせず地べたに膝を付けて泣き叫んでいる。
『あああっ……お母様っ、おかあ様!』
部屋の一番奥にある、おばあ様の棺。そこから私たちのいる入り口まで聞こえるほどの絶叫は、子どもながらにどうしようもないほどのショックを受けた。
そしてそんな私たちに追い打ちをかけるかのように、背後にいた母が鼻を啜る音がする。まるで噛み殺すかのように零れた嗚咽が、私の手を握っていた兄の涙腺を崩壊させた。
ぎゅっと握られた手に力が篭もり、はっと見上げれば、手を繋いでいない方の腕で懸命に目元を拭っている。
袖の隙間から流れた兄の涙。
父に怒られたときでさえ、滅多に見せないその涙に私の心臓がどくどくと音を立てる。
母に背中を押されて、私たちはゆっくりと祖母の方へと歩いて行った。
周りにいた大人たちは、私たちを視認すると同時に頭を下げ、身体を後ろに下げて道を作ってくれる。
泣き叫ぶ声はどんどん大きくなっていった。
近付いているのだから当然だけれど、その姿を捉えたと同時に、父の姿が私たちの視界に入る。
父は――棺の前にただただ立ち尽くしていた。
その隣では父の弟が座り込む形で項垂れており、泣き叫んでいるのはその妹である。
ふいに、私の手を離した兄が一歩前に出た。
そのまま祖母の棺へと駈け出した兄が、父の腕を引くように掴んで隣に立つ。
そのまま兄は――きっと眠る祖母の顔を見たのだろう。
突然背を丸めたかと思えば、声を上げて泣き始める。
私はその光景を――ただ眺めていることしかできなかった。
母にお別れをとせっつかれたけれど、その場から足が動かなかったのも事実で……
そんな私に、母は少しだけ語気を強めた。
多分怒っていたのだと思う。焦っていたのだと思う。
悲しかった――のだと思う。
その空気にいち早く気付いたのはこちらに背を向けていた父だった。
振り返った父の目元は赤く、その表情にまた鼻の奥がツンとする。
でも泣けない。涙は出ない。
ただ嫌だった。
この空間がとてつもなく嫌で、叔母の泣き声が耳鳴りのように頭を揺らす。
「何をしているのっ、いい加減に――」
「いいよ。子どもに無理をさせるものじゃない」
「っ、お義姉さん……」
そろそろ母の雷が落ちる――そんな頃合いに声を掛けてきたのは、父の姉に当たる人だった。
こちらを見ていた父が、また背を向けて兄の背中をさする。
伯母に促された母が、私を一瞥したのち父と兄の方へ歩いて行った。
取り残された私の手を引いたのは伯母で、彼女は優しげに私を見下ろし「いいんだよ」と告げる。
「父さ……おじい様も、ここには来てない。だから、無理しなくていいの」
少しばかり強い力で手を引かれ、足早にその部屋を出る。
どんどん小さくなる叔母の泣き声だけが尾を引くように、私は意識だけを亡くなった祖母に向けた。
――だがそれも、バタンと閉じられた扉に打ち切られる。
「……おばあ様、」
思わず出た言葉に、私の手を引いていた伯母が笑った気配がした。え?と見上げた先で彼女は、私を見下ろして「ありがとう」と言う。
「会いに来てくれて」
母様も、喜んでる。
それは伯母の、どうしようもない本音だったのだろう。
おじい様を『父様』と言い掛けて訂正した伯母が、おばあ様をはっきり『母様』と言い切ったことに、私は強烈な喪失感を味わった。
もう祖母はいないのだ。
穏やかで、優しく、美しかった祖母はもういない。
「おば様、おじい様はどうしたの?」
「さぁ……お部屋かな」
「おじい様は、おばあ様にお別れをしないの?」
「……どうだろう?お別れ……もうしたのかもしれないし、するつもりがないのかもしれない」
屋敷の外へ出ると、この時期にしては珍しくひんやりとした空気が頬を滑った。
空は曇天。でも少しだけ太陽の光が見え隠れしていて、もしかしたら午後は晴れるかもしれない。
その後私は、伯母と一緒に広い庭を長いことかけて散歩した。屋敷の前にあった車たちがどんどんと増えていって、そして減っていくのをただ見ていた。
祖母はこの名家の一人娘だったと聞いている。
祖母の父、私たちの曾祖父に当たる人が一代で大きくし、その後祖母に婿入りした祖父が更に発展させた。
この国で私たちの苗字を知らない人間はいないだろう。
それほどの家柄であるからこそ、祖母を悼みにくる人間も後を絶たない。
実のところ、私は自分の家に詳しくないのだ。
子どもだからというのもある。
女児だからというのもある。
兄はもう少し知っているのかもしれないけれど、聞いたこともないし話題に上がったこともない。
それを特別不便に思ったことはなかった。
私は恐らく、ごく普通の生活を送っている。
苗字で遠巻きに見られることこそあるけれど、友達がいないわけでもなければ、何か優遇されることがあるわけでもない。
この国は随分と変わったと――教えてくれたのは祖母だ。
祖父のおかげだと笑っていたことも覚えている。
私たちは平和な時代に生まれてきて、生きていて、それが嬉しいと――
(おばあさま……)
泣きたいのに、泣けないのは初めてだった。
私も祖母の死を悲しみたいのに、どうして涙が出ないのだろう。
私はあんなにも祖母が大好きで、大好きで、大好きで……
「おば様」
私の呼び掛けに、伯母は「ん?」と振り返った。
その表情はどこか祖母に似ている。
母娘なのだから当然だ。だけれど祖母はかけていなかった伯母の眼鏡が、太陽の光にきらりと反射して眩しかった。
「おば様も……泣いた?」
さぁっと吹いた風が、伯母の短い黒髪を、私の長い黒髪を揺らす。
はためいた伯母の喪服。真っ黒な着物の袖が何故か目に焼き付いて、私はその時の伯母の顔を覚えていない。
「――――――」
――――あぁ、あの日伯母は何と答えてくれたのだろう。
覚えていない。思い出せない。
八歳の夏の終わりだった。
子どもだった。
何も知らない――小娘だった。